さらば、名古山で会おう。

 
 

ワタクシはお城を中心に城下町だった時代を映す町並みや、当時のままの町名が

残る街の、現在となれば、お城の中とも言えるような日本庭園が美しい、好古園

がある、その場所で育ちました。

 

昭和中期の当時を知らない方からすれば、想像もつきませんが、お城の周囲には

官公庁や鉄筋アパート、木造長屋の官舎や住宅が数多く建ち並び、土手沿いには

戦後が強く残るバラック住居もいっぱいで、その並びに公共職業安定所。

 

雨上がりには水たまりの出来る、まだ土のままだった路地を駆け抜けて、ヒザを

擦りむき、昆虫網を手に真っ黒に焼けて、船場川や中堀で遊んでいました。

 

夜を賑わう繁華街も校区でしたから、友だちのお母さんが仕込み中のスナックの

奥の部屋で遊んだり、朝のけだるい時間のお姉さんが「 いってらっしゃい 」と

声をかけてくれる、登校のための集合場所とか。

 

となりの校区でしたが、街のどこからでもお城が眺められるのと同様に、大きな

仏舎利塔が見える墓地公園も街をつくる存在のひとつで、当然、この広い霊苑も

遊び場でした。

 

船場川から柿山伏を通りクネクネと路地を行けば、目の高さの1階が地階となり

安置室のある旧赤十字病院、そこから狭くて小さな峠を越えれば、少年刑務所の

レンガ塀が間近に迫り、葬祭会館の横を抜けて名古山霊苑。

 

当時はまだ整備が届かない場所も多く、廃墟化した一画のトンネルは格好の冒険

ゾーンで、高みにそびえる塔は、斎場の煙がここを通って空へ上がっていたので

冬場の凍えた手で触れると暖かかったです。

 

そんな昭和の時代の幼いワタクシを育んでくれた街は、時代とともに整備されて

美しい街へと生まれ変わっていますが、思い出は生き続けます。

 

また大人、それも後半になってからのワタクシたちを迎え入れてくれた、現在の

暮らしを続ける田舎暮らしの集落や町も大好きで、過疎の町の財政にほんの少し

でも貢献できるよう、納税など社会人としての努力を続けなければなりませんが

いつの日かワタクシたちがこの世に存在しなくなったとき、先祖代々の墓がある

二人でもありませんので、その骨は散骨でもいいものの、それをお願いする人の

ことなど考えれば、名古山霊苑の共同納骨堂に入れてもらえれば幸いかと。

 

昨日、7/31(日)午前5時、ここで暮らし始めた当初に、集落に入る峠で出会い

ともに暮らし、田舎暮らしの自宅のリノベーション、そのすべてを共有してきた

" ゆず " が、彼女とワタクシに看取られながら永眠し、からだを拭き、爪を切り、

二人でダンボール箱に納め、名古山へ連れて行きました。

 
 

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