大好きな九州を中心に尋常ではない豪雨による災害が発生し、心痛めるとともに
まだまだその段階でもありませんが、お見舞い申し上げます。
ときに、自然の猛威に対して人の無力さを痛感します。
火災のように何もかも燃えてしまうのも辛いですが、浸水した家の片づけを想像
すると、その無念さと労力は計り知れないものがあります。
ワタクシ自身はさいわい、自宅が水に浸かる被害を経験したことは無いのですが
いや、聞くところによると、記憶も無い生後7か月のときに経験しているのです。
近代医学の祖といわれ、大阪に適塾を開いた緒方洪庵の記念病院で生まれ(当時
ボロボロ木造の病院で、布団等も持ち込みでとにかく安かったかららしい・笑 )
住吉区あたりから岡山県柵原町に移り住み( もちろん全部、聞いただけ )その
直後に全壊流失40棟の被害が出た、昭和38年7月の吉井川水害に遭い、赤ちゃん
だったワタクシの家も床上浸水し、対応と片づけで疲労困憊していた父は、山へ
仕事に入った8月1日に、吉井川支流の鮎返川のほとりで、現在でいう心筋梗塞で
倒れて亡くなったそうです。 ワタクシ生後7か月のこと。
いまでもお母さん一人でお子さんを育てるのは大変でしょうが、昭和38年当時の
その後の生活を続ける母の苦労も相当だったようで、しばらくの間、ワタクシを
加古川だったか、高砂だったかの誰かにあずけ、中学校卒業と同時の集団就職で
島根県の田舎から姫路の東洋紡績に勤めた記憶を頼りに、岡山県から姫路にきて
なんとか生活を築き、ワタクシを引き取ったのです。( すべて " ~らしい " )
当時はみなさんそうだったのでしょうが、四畳半一間に母とワタクシのすべてが
あって、尚且つそこで寝起きしていたかと思うと、よくぞまぁ。( 笑 )
という訳で、ワタクシは " 父親 " というものを実感として知りませんし、それで
良かったとさえ思っているのですが、そういったことに興味なく、ちゃんと母に
聞くこともなく、そして晩年、認知症を患って亡くなったので、もう知るすべも
ありません。
まぁ自分自身を含め誰のルーツにも興味はありませんし、これからもそうですが
こうして書いてみるのは、もし当時を知る誰かと検索でめぐり会えば、ちょっと
「 実際、どんな風だったん? 」と興味津々、聞いてみたいと。
幼い頃に一度だけ母に連れられ、汽車とバスを乗り継いだ長時間の移動と徒歩で
その山奥の現場へ行き「 ここで川の水を飲もうとして倒れたと聞いたわぁ 」と
抑揚のない母の言葉が記憶に残っています。
その方が麓に下りて連絡をしてくれた、という現場に一番近い渓流沿いの家には
水車とバッテリーがあって、豆電球の自家発電で暮らされていました。
そちら方面へ出かける機会あれば、その水清い渓流の細い川を遡上してみたいと
思いますが、さてはて50年以上が経ってその場所が思い出せるのかどうかですし
原風景が残っているのかもあやしいです。
もうすぐ命日ですが、50年が経過した頃から元々記憶にもない父の墓石、生きて
行くのさえ大変だった母が、借金をして建てたと聞いたその小さな墓石を、無に
してしまいたい思いから、千種町の山の中腹にある墓の掃除にさえ行っていない
先祖不幸者です。
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