訃報でお名前を聞いて思い出したのですが、その昔、彼は私の家に泊まって
くれたことがあるのです。 (この書き方は表現としておかしいのですが)
いつの頃の記憶でしょう、私が小学生の時でしょうか、たぶんこちらの方で
ロケがあった際に、スタッフはホテルに泊まっていたと思うのですが、彼の
我がままだったのでしょう、「民家のような宿に泊まりたい」 という希望に
どういった経緯か、母が寮母をつとめる我が家が選ばれたのです。
当時、客間二間に玄関、風呂、洗面、小さな厨房の横に四畳半の部屋がある
寮に二人で暮らさせていただき、お客さん用の食事の用意や、各部屋を掃除
している母の姿を見て育ちました。
なので、私の家という訳ではないのですが、子ども心には寮全体が私の家で、
四畳半の部屋に置かれた数えられるほどのものが母と私のすべてでした。
いま思い出せばその四畳半に、木製の大人用のお下がりの机を学習机として
置いてくれていましたし母の鏡台もありました。 冬には豆炭こたつもあって
そしてそこで二人が寝ていたのですから、どう工夫していたのでしょう。
私自身はお会いした記憶が無いのですが、そこに彼が宿泊してくれたことは
母の自慢だったようで、寮の玄関先で母が並んで撮ったもらった白黒写真が
大事に仕舞われていたはずですが、どこにいってしまったでしょう。
満開だった桜にも緑が目立ち始めた穏やかな春の日、施設でお世話になって
いる母にその思い出を語ると、そんなこともあったのかなぁ、と、そこでの
友人に私のことを自分の弟だと紹介してくれます。
遠い先のいつの日にかのため、その白黒写真を探しておかねばなりません。
私の母と笑顔で写っていただいた時代に名を残す名優、三國連太郎さんの
ご活躍を偲び、ご冥福をお祈り申し上げます。
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